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フルトヴェングラー

フルトヴェングラー

https://history-of-music.com/furtwangler

1.生没年 出身地 歿地
ヴィルヘルム.フルトヴェングラー生誕 
Wilhelm.Furtwängler
正しくは
グスタフ.ハインリヒ.エルンスト.マルチン.ヴィルヘルム.フルトヴェングラー
Gustav.Heinrich.Ernst.Martin.Wilhelm.Furtwängler

(1886年1月25日ベルリンBerlin, Germany生)
(1954年11月30日バーデン=バーデンEbersteinburg, Karlsruhe, Baden-Württemberg, Germany (pneumoniaに歿)

3.称号
ハイデルベルク大学名誉博士号
マンハイム市名誉市民
ゲーテ勲章(栄誉)

4.フルトヴェングラー家の先祖

フルトヴェングラーという長い姓は南西ドイツ、フライブルク近くのフルトヴァンゲン近郊にある標高1,000mという山間部の農地(フルトヴェングレ)に由来するといわれている
フルトヴェングラーの父方の先祖たちは、神聖ローマ帝国時代の15世紀から17世紀まで同地で代々農業に従事していたと思われる

5.フルトヴェングラー家の家系(1)

高祖父の高祖父:ベルンハルト*フルトヴェングラー、11 g(1608-1685)、Bernhard * Furtwängler, 11 g、出身:Oberheubachhof 13, Furtwangen, Freiburg, Baden-Wurttemberg, Germany
高祖母の高祖母:バルバラ.フルトヴェングラー(1621-1683)、Barbara Furtwängler (Ketterer)、旧姓:ケッター、出身:Gütenbach, Freiburg, Baden-Wurttemberg, Germany
高祖父の曾祖父:ゲオルグ.フルトヴェングラー(1639-1700)、Georg * Furtwängler, 10g、出身: Furtwangen, Freiburg, Baden-Wurttemberg, Germany
高祖母の曾祖母:アンナ.フルトヴァングラー(1641-1717)、Anna Furtwängler (Dilger)、旧姓:ディルガー、Kajetanshof, Furtwangen, Freiburg, Baden-Wurttemberg, Germany
高祖父の祖父:マルティン.フルトヴェングラー(1670-1737)、Martin Furtwängler、出身: Oberheubachhof, Furtwangen, Freiburg, Baden-Wurttemberg, Germany
高祖母の祖母:アガテ.フルトヴェングラーAgathe Furtwängler (Ketterer)、旧姓:ケッター、出身:Gütenbach, Freiburg, Baden-Wurttemberg, Germany
高祖父の父:マイケル.フルトヴェングラー(1698-1771)、Michael Furtwängler、出身:Unterleimgruben, Gütenbach, Freiburg, Baden-Wurttemberg, Germany
高祖母の母:マグダレナ.フルトヴァングラー(1693-1760)、Magdalena Furtwängler (Kern)、旧姓:コア、出身:Unterlehmannsgrundhof 9, Gütenbach, Freiburg, Baden-Wurttemberg, Germany
高祖父:マルティン.フルトヴェングラー(1729-1798)、Martin Furtwängler、出身:Gschwen-Kunsters, Gütenbach, Freiburg, Baden-Wurttemberg, Germany
高祖母:フランツィスカ.フルトヴェングラー(1732-1792)Franziska Furtwängler (Winterhalder)、旧姓ウィンターハルダー、出身:Oberstaatsbergerhof 14, Furtwangen, Freiburg, Baden-Wurttemberg, Germany
曾祖父:バルトロメウス.フルトヴェングラー(1772~1845年)Bartholomäus Furtwängler、出身:Schmiedhäusle, später Schmittebartli-Hus, Gütenbach, Freiburg, Baden-Wurttemberg, Germany
曾祖母:ヘレン.フルトヴァングラー(1773-1839)、Helene Furtwängler (Dold)、旧姓ドルド、出身:Ecklehof, Gütenbach, Freiburg, Baden-Wurttemberg, Germany
曾叔父:フィリップ.フルトヴェングラー(1800~1867年)オルガン製造所経営.エルゼ市長
曾叔父:ローレンツ.フルトヴェングラー(1807~1866年)時計会社経営
祖父:ヴィルヘルム.フルトヴェングラー(1809~1876年)Wilhelm Furtwängler, Dr.古典文献学者.ライセウムのギムナジウム校長、出身:Schwefeldobel, Gütenbach, Freiburg, Baden-Wurttemberg, Germany
祖母:マルガレーテ.フリーデリケ.クリスティアン.フルトヴェングラー(1829~1901年)Margarethe Friederike Christiane Furtwängler (Schmidt)/旧姓シュミット、出身:Mannheim, Baden-Württemberg, Germany
父:アドルフ.フルトヴェングラー(1853年6月30日~1907年10月10日)(独: Johann Michael Adolf Furtwängler, )は、ギリシャ.ローマ時代を専門とする有名な考古学者、ベルリン大学教授、ベルリン考古博物館館長であった。1894年ミュンヘン大学に招かれ、ベルリンでの職を辞し、一家はミュンヘンに移った。父はミュンヘン大学考古学教授、古代彫刻館、古壺および鋳造博物館の館長に任命された。ロマン派の音楽に深い理解をもっていたという。1907年ギリシャのエギーナで赤痢にかかり、54才で客死した。遺体はアテネで丁重に埋葬された。出身:Freiburg im Breisgau, Freiburg, Baden-Württemberg, Germany
母:アーデルハイト.ヴェント(1863-1944)Adelheid Furtwänglerは画家/旧姓ヴェント、祖父は、プロイセン王立学校の教育行政官で、のちに枢密顧問官になった。父も教育者で中高等学「校長のあと、バーデン教育委員会の枢密顧問官を務め」た。母アーデルハイトの母方であるドールン家の家族には、『教育関係者のほか、音楽家も多く、中にはプレスラウ音楽学校長になった従兄のゲオルク・ドールン(1867-1942)』がいる。「フルトヴェングラーにヴァイオリンを教えたり、作品を指揮し初演したり、仕事の支援をしてくれたり」した。「ヴェント家には音楽サロンがあって、多くのアーティストの交流の場となっており、ブラームスが訪れたこともあった」ようだ。母はそうした環境の中で育ち、音楽的才能を持った女流画家であった。出身:Karlsruhe, Karlsruhe, Baden-Wurttemberg, Germany
弟:ワルター.フルトヴェングラー(1887~1967年)美術史家
妹:メーリット.フルトヴェングラー(1891~1974年)
妹:アンナ.フルトヴェングラー(1900~1974年)

<フルトヴェングラーの家族>
ヴィルヘルム.フルトヴェングラー(1886~1954年)
最初の妻:ツィトラ.ルント(1923年結婚~1931年離婚)、Zilta Furtwängler (Lund)
二番目の妻:エリーザベト.フルトヴェングラー(1910-2013)、Elisabeth Furtwängler (van Endert Albert)(旧姓エリーザベト.アルバート.アッカーマン)
愛人:ハッチンソンEx-husband of Else Hutchinson
嫡子:アンドレアス.フルトヴェングラー(1944年生まれ)、エリーザベトとの間の子、Andreas* Ernst Gottfried Furtwängler、考古学者
非嫡子:ヴィルヘルム(1916年生まれ)トニー.ケテルス夫人との間の子供(認知)自分の名前を付けている
非嫡子:ダグマール(1920年生まれ)(認知)
非嫡子:フレデリカ(1921年生まれ)、エリーザベト.フーフとの間の子供(認知)自分の名前を付けている
非嫡子:イーヴァ(1923年生まれ)、ハッチンソンとの間の子、Iva Besson (Hutchinson)
非嫡子:アルムート(1934年生まれ)
フルトヴェングラーの死後、認知を請求された数はおよそ13名であるという

参考文献:HMV、『ヴィルヘルム.フルトヴェングラー&ベルリン.フィル 定期演奏会の … – HMV』「ヴィルヘルム.フルトヴェングラー&ベルリン.フィル 定期演奏会のベートーヴェン:交響曲第1番、第3番、第5番、第6番、第7番、第8番(1947-54)(6CD) 」人物フルトヴェングラー年譜

8.その他
プロイセン.プール・ル.メリット勲章(学術芸術)
プロイセン国家顧問官
レジョン.ドヌール勲章
モーツァルトメダル(ウィーン.モーツァルトゲマインデ協会)
ドイツ連邦共和国功労大十字勲章
ハイデルベルク市名誉葬
ベルリン.ヴィルマースドルフ区の住所にフルトヴェングラー通り(Furtwänglerstraße)を設置
ウィーン.ヒーツィング区の住所にフルトヴェングラー広場(Furtwänglerplatz)を設置
ザルツブルク祝祭大劇場脇にヴィルヘルム.フルトヴェングラー庭園(Wilhelm-Furtwängler-Garten)を設置
バイロイト、フライブルクにフルトヴェングラー通り(Furtwänglerstraße)を設置
ヴィルヘルム.フルトヴェングラー賞

11.フルトヴェングラー家の家系(2)

1. 曾祖父:バルトロメウス.フルトヴェングラー(1772~1845年)
「18世紀終わりシュヴァルツヴァルトの農民だったバルトロメウス(曾祖父)は、農業をやめ運送業者になって山間集落から抜け出して町に暮らした。近隣の小都市に果実や野菜、時計などを馬車で運ぶほか、穀物商も営んで」いたようだ。「そのため時計に縁のあったバルトロメウス(1772~1845年)は、息子たちを都会に行かせ時計職人の技術やオルゴール製造を学ばせた。12人の息子の半数は時計職人と」なった
曾祖母:

2. 祖叔父:フィリップ.フルトヴェングラー(1800~1867年)オルガン製造所経営.エルゼ市長
息子のフィリップ.フルトヴェングラー(1800年4月6日~1867年7月5日)はバルトロマウスの11人の子供のうちの3人目として、グーテンバッハ/バーデンで生まれた。彼は古典文献学者.ギムナジウムの校長になるヴィルヘルム.フルトヴェングラーの兄であり、指揮者のヴィルヘルム.フルトヴェングラーの大叔父になる。時計製造業を学び、1822年にヒルデスハイム近くのエルゼの市民になった。カトリック教徒だった彼は1828年にここでプロテスタントの信仰に改宗した。その前からオルガンの製造を始め、この地域で最も大きなオルガン製作者の 1人になった。彼は少なくとも68台のオルガンを製作し、他のオルガンの33台の改善と修復で知られている。同社は1838年に【Thurm-Uhren-Fabrik PhilippFurtwängler】として最初に登録され、1849 年には8人の正社員を雇用し、1854年には15.20人となった。主にハノーバーとブラウンシュヴァイクの福音ルーテル地方教会の領域で活躍し、いくつかのオルガンはカトリック教会のためにも作られた。フィリップ.フルトヴェングラーが行った最大のオルガンは、グローナウ(ライネ)の福音ルーテル聖マタイ教会のオルガンである。フィリップ.フルトヴェングラーは、1852年~1854年~1857年までエルゼの市長に選出された

3. 祖伯父:ローレンツ.フルトヴェングラー(1807~1866年)時計会社経営
バルトロメウスの息子ローレンツ(1807~1866年)が1862年に創業した会社は、当時人気のあった「カッコー時計」を製造し1919年まで続けた

4. 祖父:ヴィルヘルム.フルトヴェングラー(1809年ギュテンバッハ生まれ~1875年フライブルク.イム.ブライスガウで歿)
祖父は、多方面に興味をもち明るい性格であったようだ
1829年20才、ミュンヘン大学に入り古典文献学を学ぶ
1832年23才、大学の師でギリシャ語学者:フリードリヒ.ティールシュの斡旋でアテネに行き3年間、ギリシャの国防大臣ヴィルヘルム.フォン.ル.スィールWilhelm von Le Suire, の息子の家庭教師を務め、古代ギリシャのモニュメントを研究する機会を得た。
1835年26才、務め後、イタリアを旅行し、バーデンに戻った
1836年27才、高校教員の国家資格を取得し、コンスタンツ、マンハイム、フライベルクの高校で教えた
1838年29才、教授に任命され、マンハイムのギミナジウム教員
1841年32才、ハイデルベルクのフリードリヒ大選帝侯ギムナジウムに転勤する
1844年35才、マンハイムに移り
1848年39才、コンスタンツのギミナジウムに戻る。クリスティアーネ・シュミット(20才)と結婚した。やがて男二人、女二人が生まれた。娘ミンナはピアニストになった
1849年40才、最初の著作《馬に乗るカローンDer reitende Charon》を出版した
1852年43才、フライブルクのライセウムのギミナジウムに移った
1853年44才、後に考古学者となるアドルフ.フルトヴェングラー生まれる
1855年46才、後に実業家となるロベルト.ヘルマン.ヘンリー.フルトヴェングラー生まれる
1863年54才、フライブルクのベルトルト.ギムナジウムの経営陣に加わった。その後、ギリシャ文学.ギリシャ神話に関する著作を数多く出版しになった
1868年59才、フライブルクのライセウムのギムナジウムの校長に昇格した
 祖母:クリスティアーネ.フルトヴェングラー(1829年マンハイム生まれ~1901年フライブルクで歿/旧姓シュミット

5. 父:アドルフ.フルトヴェングラー(1853~1907年)
指揮者フルトヴェングラーの父となるアドルフは、少年時代からピアノの即興演奏が上手であった。父が校長を務めるギムナジウムの生徒であったが中退する
1870年17才、フライブルク大学に入り古典文献学の研究をはじめた
1872年19才、ライプツィヒの大学に移り文献学者のフリードリヒ.リチュルのもとで学んだ
1873年20才、ミュンヘンに戻り、ハインリヒ.ブルンに考古学を学んだ
1874年21才、博士号を授与される
1875年22才、高校教員の国家試験を受け、ベルトルト.ギミナジウムで研修勤務に就く。
1876年から1878年、3年の兵役を終えブルンの推薦でドイツ考古学研究所の奨学金を受けイタリア、ギリシャに滞在してミケーネ、オリンピア、アイギナの発掘調査に参加した。ヨーロッパ中の古典芸術品を、美術館や博物館所蔵の品々について幅広い眼識を得た
1878年25才、オリンピアの遺跡発掘に参加
1879年26才、ドイツに戻り、ボン大学で大学教授資格を取得し教授として暮らした
1880年27才、エルンスト.クルツィウスによりベルリン古代博物館助手に任命された。博物館勤務の傍らクルツィウスの家に出かけては、ピアノの即興演奏をしたり、文学や音楽の話に加わった
1882年29才、骨董の壺絵の発展に歴史的秩序をつけた論文を発表した。
1884年31才、ベルリン大学助教授。アーデルハイト.ヴェントと出会い結婚
1886年33才、後の指揮者となるフルトヴェングラー誕生
1893年40才、「ギリシャ彫刻の傑作」は1893年出版
美術品や様式の鑑定家としての名声は広まり、個人のコレクターなどから国内や海外からも鑑定依頼に招かれたりしベルリンでは一番有能で仕事ができた。これらはベルリンの権威ある目上の著名人の逆鱗に触れたりすることに繋がった。古代美術館長には「うぬぼれ屋」と言われたりしたが、クルツィウスは助教授に任命されるまで尽力してくれた。高慢であるという噂や、専門の研究分野でもベルリン派閥との学術的論争により好が起こった。やがては意的だった人たちをも傷つけてしまい大勢の中で浮いてしまった
1894年41才、ミュンヘン大学の教授に招聘されベルリンを去った。
1897年44才、ベルリンがアンティーク蒐集した1万5千点におよぶカメオやカメオ風の石細工を等を調査した目録は出版され、宝石細工の包括的基礎を築いた
1901年48才、ミュンヘンのエギンテンスカルプチャートゥルンAeginetenskulpturenの発祥地である、アイギナのアファイア神殿 Aphaiatempel auf Ägina,を発掘
彼の功績 : オリンピアで発掘されたブロンズ出土品の研究成果は古代ギリシャ芸術を語る上で標準的な研究となり、ミケーネ陶磁器の研究成果は紀元前1000年代(前2000-前1000年)のギリシャ芸術研究に指針を与えた。ベルリン時代(1880年から)には壺と宝石出土品のカタログを作成しているが、これは当時の研究水準としては包括的、網羅的、かつ、体系的なものであった
『ミケーネの粘土容器』1879年共著、古代史博物館の壺収蔵品の叙述』1885年全2巻、『ミケーネの壺:地中海地方のヘレニズム前期の粘土容器』1886年共著、『オリンピアのブロンズ像とその他の小規模出土品:ドイツ帝国主催による発掘調査の成果』1890年全2巻、『ギリシャ彫刻の傑作群:芸術史的研究』1893年、
『古代史博物館の彫磨宝石収蔵品の叙述』1896年、『古代の宝石:古典古代期の宝石彫磨術の歴史』1900年全3巻、『ギリシャの壺絵画:傑出した壺絵画の抜粋』1904年共著、『アイギナ島のアパイア神殿』1906年全2巻共著

6. 母:アーデルハイト.ヴェントの家系
6-1. 母アーデルハイト(1863~1944)画家
アーデルハイトは幼少からアッディの愛称で呼ばれた。アッディは生まれつき右目に潰瘍があり幾度も手術したが失敗し醜い痕跡を残したばかりでなく、顔の右半分を麻痺したままであった。画家になる教育を受けた
1854年アーデルハイトはアドルフ.フルトヴェングラーと結婚した
6-2. 祖父:グスタフ.ヴェント(1827年ベルリン生まれ~1912年)は何世代も前から高級官僚に属する家系出身だった。ボン大学で文献学者フリードリヒ.ヴィルヘルム.リッチュルのもとで形式的、形式主義的な文体批判を学んだ。ゴットフリート.キンケル夫人の主宰する合唱団の熱心なメンバーであった。ハレ大学に移り本気で勉強し博士号を取得後、ボーゼンのギムナジウムの教師になった
1848年の革命後、シュテッティンに移った。そこでは趣味の音楽教師として作曲家カール.レーヴェとカール.アウグスト.ドールンが活動していた
1854年アンナ.ド-ルンと結婚した。二人はボンメル地方グラィフェンベルクを経由して1856年小さな町ハムに移った。この町では「ドイツ文章論」「ギリシャ文法教科書」の著者、ソポクレスの翻訳者でドイツの叙事詩やドイツ名詩選の選者であった。また、歌唱を学べるように動きハムの合唱協会がミュンスターのセシリア会の催しでは、この町の名誉と芸術的センスを確立した。ミュンスターでは最良の友人となるヨハネス・ブラームスと知り合った
最後はカールスルーエのギムナジウムの校長になった。カールスルーエではクララ・シューマンやブラームスがピアノ伴奏をするシュトラウスのワルツを踊った。知り合いたちはヴェント家やシュテッティンのド-ルン家に集まった

6-3. 曾祖父(父方):曾祖父ヴェントはプロイセンの枢密顧問官を務め、ベルリンのギミナジウム、灰色の修道院付属学校時代でビスマルクを教えたこともあった
6-4. 高祖父(父方):高祖父ヴェントはビスマルクの同僚だった。枢密顧問官を務めた
高祖叔父(父方)オットー:は建築家、高祖叔父:グスタフはチューリンゲンの関税貿易同盟の総監査部主任となりドルヴィーユ.レーヴェンクロー家の女性と結婚した
6-5. 祖母(母方):アンナ.ドールン(1831~1892年カールスルーエで歿)はシュテッティン出身でドールン家出身。1854年グスタフ.ヴェント結婚した。
6-6. 大叔父(母方):ハインリヒは自然科学者(1838~1913年)、大叔父:ヴィルヘルム(1839~1903年)は保険会社社長、大叔父:アントン(1840~1909年))は動物学
6-7. 曾祖父(母方):カール・アウグスト.ドールン(1806~1892年シュテッティンで歿)は、実業家で甜菜糖から白糖精製に切換え、ボーメルン地方最大の製糖所の経営者になった。さらに文学研究者として四巻のスペイン戯曲集の翻訳を出版した。昆虫学者として昆虫の甲虫コレクターとしては本職に劣らぬ根本的な研究をし、博士号を授与された。音楽家でもあり、歌も上手く歌手としてオペラやオラトリオに出演し、ピアノを弾けば難曲も玄人はだしに巧みに弾いた。フェリックス.メンデルスゾーンの無二の仲間であった。カールは国王フリードリヒ.ヴィルヘルム四世の愛顧を受けこの王の宴席には不可欠の人物であったようだ
カルアウグスト.ドールン1859年プロイセン下院議員に選出された
6-8. 曾祖母(母方):アーデルハイト.ディートリヒ(1804~1883年)

参考.要約:HMV、『ヴィルヘルム.フルトヴェングラー&ベルリン.フィル 定期演奏会の … – HMV』「ヴィルヘルム・フルトヴェングラー&ベルリン・.フィル 定期演奏会のベートーヴェン:交響曲第1番、第3番、第5番、第6番、第7番、第8番(1947-54)(6CD) 」人物フルトヴェングラー年譜』 / エバーハルト.シュトラウプ著、『フルトヴェングラー家の人々(あるドイツ人家族の歴史)』、岩淵達治.藤倉孚子.岩井智子(共訳)、岩波書店、2011年


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